昭和41年03月15日 朝の御理解
信心をさせて頂く者の、心得として、教祖の神様はこう言う風に仰っておられます。お伺いでもする時には、取り分け平気な心、深刻なものであってはならない。平生取分け、平気な心と、又落ち着いてゆっくり願えとも、仰っておられる。どうぞ一つ、信心させて頂く様になりましたらね。けそ々してはおかげは受けられません。「およたれがんのあないらず」というこの辺の言葉で申しますがね。
信心させて頂いたら、「およたれがんのあないらず」になっては、おかげにはなりません。けそ々しては、おかげになりません。けそ々する様な気持ちが起ったり、そういう場の時にはですね。むしろご神前にでも、ぬかづかせて貰うてから、自分の心の中に、ま例えばお伺いをさせて頂いても、いちいち神様からお知らせを頂く訳ではないですけれども皆さんがね。けれども自分の心の中に神様が立ってもよい。
座ってもよい。あっしてもよいと、こう言って下さった様な気持ちのするまで御神前に座るくらいの気持ちが必要です。これはね。何をするにも、心掛けというのがいるんですよ。まして信心させて頂く者のこれは心掛け。例えば、お伺いをするにでも、例えばほんなら御結界でもお伺いをなさるでもです。自分の心の中に、先生が右というて下さればよいが、左といって下さりやよいがと云う様な気持ちがあってから、お伺いをしては駄目です。もう、私の心の中にそれが響いて来るです。
もうそれこそ「いやになっちゃいます」と時々私が言いますがね。あたしは時々そんな「いやになっちゃうね」と言う様な事を言われますよ。本当に人間てなんて汚い事を言うのだろう。そんな気が致しますお伺いしよってから自分の心じゃ、右がよい左がよいと思っとるでしょう。お伺いする時には「もうどうでもよい」と「どちらでもよいと」と、御神意のままに動かせて頂こうと腹が定まらなければお伺い出来ません。
昨日もね。東大と慶応に受験した人があるんですよ。おかげで昨日、慶応の方から合格通知が来たんです。それが、入学金が十五、六万納めなあならんとらしいですね。ところが東大の発表は、その後なんです。東大に出来とろうごともある訳ですよね。だからもう、お伺いしてから先生が、もう納めんでよかちと言いなさりゃ、十五、六万カパッと儲かろうと思うて。
もうそれこそ、もう本当お金なんかその家なんか残されん事あるとですもん。人間は汚いですね。もうほんなこて、どれだけ財産があるか、自分で読めない位あるんです。この家にはお金は。人間の欲というものがね。皆さんがお願なさるでしょう。お願いなさる時には、心ゆっくり、こう言う様な事をお願いしよるが、こう云う事をお伺いしよるが、神様が喜んで下さる様なおかげになる様な願いであるか、どうかと云う事を本当に確かめなければいけませんよ。
自分の願っておる事、縋っておる事。信心というのはね、氏子の便利のよか時ばっかり、おかげを下さろうというのじゃ決してないのですよ。神様は。もしそういう神様がです。もし、おんなさるとするなら、それはもう神様の風上にも、おけない神様ですよ。人間の例えば便利の事ばっかり、人間の都合の良か事ばあっかり、神様には神様のご都合があるのですから、神様のご都合も伺うてね。自分の都合の事ばあっかり、という信心じゃ、何時まで経っても埒はあきません。
成程五穀豊穣、人間の身体の上に痛み、病気があっては、家業出来難し。実意丁寧をもって、牛馬の事に至るまで願えと、こう仰って下さる。それは、私共の、それあもう、一事が万事に、神様にお願いさせて頂くと云う事は、いいのですけれども。お願いをさせて頂いたら、右左はもう神様に任せなければいけんのですよ。健康の事も願うがいい、人生のお繰り合せの事も願うがいい。けど、そこにはどこまでも実意をもって願えと仰っておられます。ただ、無茶苦茶に頼めと言う風に仰ってはいない。
果してこう自分が願うておる事が、実意と云う事になっておるか、どうか。相手の事なんか、全然考えていない。自分の事ばあかり。これじゃもう、実意を欠いております。 実意を持ってもう身の上の事、なんなりとも実意をもって願えと仰るから。もう、私共なんかの場合、もう本当にもう一寸まあいうならば、お便所に立たせて頂く事でも、お願致します。最近なんかもう、私、毎日午後から散歩に出ますから、もう散歩に出らせて頂く。今日どちらの方角に行くかまで、お伺い致します。
それはね。それはこちらの方角に行ったら、便利の良い事があると、自分に都合のええ事があると云う事じゃないのです。ひよっとしたら、こちらへ行ったら、却って困る事があるかも知れんのです。そこはもう、神様に任せてあるんですよ。神様は右に行けと仰るから、右に行くだけのこと。左と仰るから、左の方とらして頂くだけの事。それを、ああ右ち言いなさったから右の方に違わんごと良かこつのあるじゃろう。
右の方に行ったらお金が落ちとるごとある気持ちで、お伺いする様な事では、おかげにならん惟は信心をさせて真の信心をさせて頂く者の心掛け。今日はけそ々する様な時には、けそ々する様な気持ちが起って来る時には、もう取り分け神様の前にでも座らせて貰うてからお伺いがでけんでも、御神前に天津祝詞でも奏上させてもらう位の気持ち、大祓でも奏上させて貰う位の気持ちで、自分の心が平生になってそして神様から行ってもよかぞと、もう行かんが良いぞと、例えば行く行かんの事に致しましてでもです。
自分の心の中に、それだけ信心の稽古です。確かにそういう稽古をさせて頂きよりますとね。心の上に、はっきり頂く様になるんです。それを「思わせの徳」と、いいます。思うと云う事でもね。自分で思いよる事じゃない。神様が思わせて下さるのです。ですから、その思わせて頂く事がですね。はっきり、そう行動しなければおられない様に、これにはっきり思う、思わせて頂ける様になるです。
これは、私がもう、いよいよ商売が駄目になり掛った頃でした。例えば、商品を持って福岡の町を、こう、商いをして歩きよりますよね。すると神様がですね。この家に寄れ寄れといいよなさる様な思いがするんですよ。それがはっきりして来るんです。すと、例えば私がそう云う様な話を聞く。聞くのであっただろうと思われる様な事が、そこの家に待ち構えておる。
それで、自分のこの思うと云う事に一つの自信が持てる様になった。或る時なんか晩遅うに、善導寺のご用を終らせて頂いてから帰らせて頂いたら丁度、岩田屋んとこで、あそこで降りてから私は長浜町でしたけど、そこに行く間にですね。心の中に、自転車が盗まれた。自転車が盗まれた様な思いが、しきりにするんですね。帰ったら自転車が盗まれとった。ホホウ。私がこりゃ思いよるちやないのか、神様が思いよるござるのじゃなあと云う様な思いが、段々私の心の中にする様になりました。
それを後で頂きますと「思わせの徳」としてです。それが自分の心に我情我欲汚い思いがあったら。この思いが汚い事ばっかしか浮かんで来ない。取分け平気な心平生心。信心にはこの平生心を保つと云う事が一番有難い事です。例えて言うならねこう云う様な御教えも御座いますしょうが「信心をしておかげを受けるのはね、人が善いのと悪いのは別物ぞ」と仰る。面白い御教えですね。人が善うなからにやいかん。
清まらにやいかん。改まらにやいかんと。片一方にや、仰っておられるけれども、信心しておかげを受けると云う事は、例えば根性が悪かったっちや、こす気があったちや。例えば、どげな泥棒癖があったちや、女癖が悪かったちや、よかち云う事。「信心しておかげを受けるというのは別物と仰る。人が善いのと悪いのとは別物じや、と。例えば申します様に信心して、段々おかげを頂いて今、私が申します様な、平生心を保たせて頂ける様なおかげを頂きますとね。
おかげを受けるんです。これは、あの何時もいうお徳を受けると云う事になりますと、それはやっぱり、磨かれたり清められたりしなければ、やっぱり駄目ですけれども、おかげを受けると云う事は同じです。例えていうならばね。もう臭いのぷんぷんする様な泥たんぼの様な水の中でも影が写る様なもんです。どんなに清らかな水でもせせらぎ、谷川の水なんかにや、影が映らないでしょうが。影が映とっても崩れるでしょうが。何時か、そんな御理解を頂いた事があった。
私は十四、五年前は、この御結界なんかもありませんでした。私のおる所が御結界と神様が仰った。夏の暑い日に私のここん所、柿畠だった。ここに井戸があった。井戸の上に柿の木がこうやって、上に多い被せる様に。ここは涼しいんですよ。私はそこで涼んどった。そしたら、丁度田主丸のむつやの石井さんが、久留米に仕入に行きよるというてから寄られた。
そこでお礼をしてから、そこに居るもんですから、そこに挨拶にみえた。それこそ、もうケソケソでいよなさいました。ちょっとご挨拶してから、「まあ、清子さん、そこにまあ腰掛けなさい。」椅子を持って来てから、井戸の前に座らせて頂いて、一時間ばっかり御理解を頂いた。ああ云う所になると、信心の稽古がでけておる者は落ち着くですね。こっちはケソケソしよると、先生は、もう「まあ、掛けなさい。」
「まあ、ゆっくりしなさい。」さあ、それからもう限りなし、御理解がでるんです。そげん時に「先生、今日はもう急ぎよりますから、ご無礼致します。」なんて言いよるとおかげを落とす。「やあ、教は先生えらい落ち着いて御座るけん、今日はもう腹を決めた。」と、これです、おかげを受けるのは。もう、その時なんか今に残っている御理解を、そん時頂いた事を今、私は記憶しておりますがね。
丁度、私は井戸の縁に、井戸がこうある。井戸の縁にこうで、お話している二人で。清子さんはここに座って居られる。そうしたらですね。そうしよると上から柿の葉が一枚、こう落ちたんですよ。井戸の中に。この井戸は低いですからね。もう、一間位のとこに水があるんです。落ちたらね。今まで鏡のようにしておった、その井戸の水が、木の葉が落ち込んだばっかりに、もうこう波風が立ったんです。
私と清子さんの二人こうやってね。二人の顔が映っているんですよ。「ほら、清子さん。見てご覧なさい。あの柿の葉が一枚落ちただけでもう、おかげが崩れよるじやないですか。今までは、はっきり鏡の様に澄んでおった井戸の水に、二人の顔が映っておったのが崩れてしもうた。これじや、おかげは頂かんばい。」それから落ち着いた。「ほんなこと。先生そうですね。」それからもう、次々と有難い御理解を頂くんですね。
いわゆる平常心と言う事を頂いたんです。その例えば井戸の水はです。例えば濁っておっても、臭いのする様な悪水でありましてでもです。これを平生にしておれば、例えばお取り次を願う神様にお願をするとですね。心の中に一つの先生が、まあいうなら引受けて下さったとか、お取り次をして下さったからもう安心という、ここに平生心がでけます。平生心にこう、影が映る様なものなのです。おかげというのは。
どんなにあの人はです。悪い事はせん。もう本当に美しい方。もう本当にあの人は正直者だと云う様な人でもです。世間ではどうしてあの様な人がああいう難儀な事が起きるであろろうかと言う様な事があろうがと、神様は仰る。本当に正直者。本当に人が善い。心の美しい人にもかかわらず、どうしてあそこの家に、あんな難儀が続くだろうかと言う様な事が、あろうが。
はあ、あげな奴かと、言われる様な人がおかげを頂きよる人があろうが、信心しておかげを受けると云う事は、人の善いのと、悪いのとは別物じや。先ず、自分の心の中に、平生心を頂く事の稽古がなされなければならん。為には、けそけそとしたっちゃでけん。けそけそしてから、道も、例えば知らん道をいきよりますよ。はっ、ここじやろうと思うて行きよると、尋ねた所が。
これあもう、あんた行き過ぎよりとなさるとですたい。又後戻らなあならん。行ったり来たり、同じ所をせんならん様なもんです。それこそお伺いでもしてから、はあぁそれは右にお出でなさい。左にお出でなさい。もう何軒目ですよと、こう聞かせて貰うてから、行ったら間違いないでしょう。信心させて貰う人は、本当にこれでいかなあいかんです。 お伺いでもする時にや、取分け平生心でと、いいえ汽車の時間に間に合いません。そげん時は間に合わん時がよかとです。
あれも間に合うたばっかりに、汽車が転覆したと言う事にならんとも限らんのですから。これこそ、一つ位遅れたっちや構わんけ、とに角神様の方を大事にし、自分の心の方を大事にし、自分の心に平生心を頂いてから、そして立ち上がると言う位のいわゆる心掛けがいるのです。特に御神前にでてから、取分けお伺いでもする時には、平気な心で、しかも落ち着いて、ゆっくり願えと仰る。落ち着いてゆっくり願わして頂く。
そこに自分の心の上に神様が、ご返事を下さる様に、はっきり下さる様に成って来る。稽古です。ですから、今日あたりは特に、その所を焦点を置いて稽古して御覧なさい。そこまでやらせて頂こうと思います。と言うてお伺いしてみる、神様に。生神金光大神様、天地金乃神様とこうお願しよるとね。先ず、皆さんの心の中に浮かぶのが、私がここに、こげんしている姿でしょう。
皆さんは金光様を知られんのだから。教祖の神様はどんな方だと知られんでしょうが。生神金光大神様、天地金乃神様とこう願いよると、椛目の御結界の様子が、自分の心の中に先ずありありと頂ける「先生、只今からどこどこにやらせて頂こうと思いますが」先生が向こうを向いて、返事もさっしやらんごとある風なものが、心の中に浮かんでくる。「はぁ先生、今日はまだ行くなちいいござるとばいな」と言う風に、先生はこっち向いて、にこにこしてから、はいはいと言いなさったごたる気色がする。
そういうものが浮かんで来るて、これ(胸)に。みなさん稽古してご覧なさい。本当に楽しいです。信心は。しまいにはですね。心の中に浮かんだ、その先生が、なにかものを言い掛けて下さる事があるんです。信心の稽古はそうです。それがいわゆるけそけそした人ではでけん。オヨタレもんでは、おかげは受けられん。もう、それこそスロースローでいかにやいけませんね。本当ですよ。
よし、慌てたからっていったって、あなた例えば同じ事です。もう、あの、ここで一番のおよたれもんは、あの田主丸の小野先生ですたいね。あの病院の先生です。もう人が何人かしとると、もうつうと前に出て来てから、お届けをしてから、もうご祈念でもありよると待ちかねんごとして、もう出て来なさる。そしてから、それでおかげを頂ききれん事が分っとってから、もう性分ですたいね。もうきょろきょろして、自分のお届けばっかりを考えておる。
(終わり)